第23のひかり | 第23のひかり | 7
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これは明らかであるにもかかわらず。意識や気力が無く、知もなく、混沌とした中で、目も見えず耳も聞こえない自然的原因が、(その原因は可能性の満ち溢れた道では集合して交じり合い、盲目さや耳の聞こえない不自由さをより増していくのだが)その原因の混乱した手によって,秩序均衡の取れたすばらしい生物(存在)を創造したと言うのは百の不可能を受けいれるほど不合理である。

まあ、この不可能を無視しても唯物論的な理由の影響は接触と直接なコンタクトで生じる。しかし誰でも分かるようにその唯物論的な理由が生命のある存在の外観と接触するのである。だがその唯物論的な理由の手が届くはずの無いその生命体の目に見えない部分は外観より10倍もきちんとしていてこまやかで、美しくて芸術的な面でも完璧である。

唯物論の材料の原因の手といろいろな器官がけっして近くに位置できず、外面にもタッチできず、しかも最も大きい生物よりいっそう奇妙で、芸術と創造に関してはすばらしいのに、小さくて生命がある生物が属性に生命がなくて、無知の、天然のままの、遠くて、巨大で、矛盾して、耳が聞こえなくて、盲目の唯物論の原因で成り立つということは、何百の盲人と何千も聾になるということである。

音がない